建築家・前川國男のプチ・グランド・バス・ツアー資料
(資料提供 工藤 哲彦氏)

企画:「前川國男の建物を大切にする会」葛西 ひろみさん
NHK 文化センター 特別講座

講師:仲邑 孔一(なかむら こういち)氏

仲邑 孔一(なかむら こういち)氏の略歴

 1936年東京生まれ。1959年安田工業高校卒業。私的に浜口ミホ氏に師事。高校時代より朴の木を使った模型が得意で、吉村順三氏がMOMAで設計した書院造りの模型を制作。1963年明治大学建築学科卒業。同年前川國男建築設計事務所入所。設計スタッフとしての一方、コンペの模型、スタディ模型を多く手掛けた。途中35年間にわたり、弘前市の仕事が中心となる。東京都在住。


参考資料

前川國男(まえかわくにお)氏の略歴

 1905年(明治38)に生まれる。1928年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業と同時にパリに赴き、ル・コルビュジェのアトリエで学ぶ(2年間)。帰国後レーモンド建築設計事務所を経て、1935年前川國男建築設計事務所を設立。50年にわたる建築家としての活動の間に日本建築家協会会長、UIA副会長などを歴任する。

1968年、日本建築学会から第1回の「日本建築学会大賞」を受賞。また、朝日賞、毎日芸術賞、オーギュスト・ペレー賞などを多数受賞している。代表作には、東京文化会館・紀伊国屋書店・京都会館・熊本県立美術館・東京海上ビルなど年譜より主要作品を調べてみても、国内では、201点、外国には12点の作品を残している。1986年(昭和61)6月26日(享年81歳)、自作の墓に眠る。

ル・コルビュジェ氏の略歴

 1887年10月16日、スイス生まれのフランスの建築家であり、画家でもある。1965年8月27日没。近代建築の5原則(ピロティ・独立骨組・自由な平面・自由な立面・屋上庭園)を指摘し、鉄筋コンクリート造の可能性を導き出した人であり、建築のモデュールについて黄金比数列に基づくデザイン用尺度を考案して「モデュロール」と命名した。門下生に坂倉準三、前川國男、吉阪隆正らの諸氏がいる。随一、日本に残る7作品は、東京・上野国立西洋美術館。

前川國男氏と弘前の関わり

 前川國男氏は明治38年5月14日、新潟市に父・前川貫一、母・菊枝の長男として生まれる。父方は旧彦根藩士で、母は旧姓田中といい、津軽藩士の田中坤六の娘であるが、田中家は天正7年、現・平賀町内を流れる「六羽川の戦い」で藩祖為信公の身代わりとなり壮絶な戦死を遂げた津軽の忠臣・田中太郎五郎の子孫である。また、母・菊枝の兄、尚武(なおたけ)は明治の外交官・佐藤愛麿(津軽藩の重臣・山中兵部の二男)の養子となり、後に参議院議長、国連大使、東京青森県人会会長などを勤めていた。そして、母・菊枝の妹、栄枝は戦前、青森県下の富豪として知られた五所川原・布嘉の佐々木嘉太郎氏に嫁いでいる。

 縁は不思議なもので、前川氏が昭和3年に東京帝国大学を卒業し、フランスのル・コルビュジェアトリエに入る際、折しも祖父の佐藤尚武が、国際連綿事務局長としてパリに駐在し、前川氏の後見人として自宅に預かった。

 一方、津軽藩の重臣で、藩主(承昭公)が東京に移ったとき随従して津軽藩の財政に参与し、後に大阪土木や広島電力などの社長を勤めた弘前出身の実業家に木村静幽(せいゆう)がいた。彼が晩年に至って、郷土の弘前に地場産業の為の研究所設立を決意するが、残念ながら実現せずにこの世を去ってしまう。その孫である木村隆三(きむらりゅうぞう)氏が、後に研究所の設立を託され理事長となる人だが、奇しくも、駐仏武官としてパリに在住していた際に、そこで同郷の佐藤尚武を通じ、前川氏とも親交を結んでいたのである。

 前川氏は2年余りの留学を終えて帰国後、東京レーモンド建築設計事務所に入所して、そからまもなく木村隆三氏から木村産業研究所の設計依頼を受け、前川氏の名前で実際に手がけた最初の建物となった。その後、母の妹が嫁いでいる佐々木嘉太郎氏が弘前電灯株式会社(後の東北電力・弘前支社)の社長という関係から、昭和8年、当電灯株式会社の建物の設計顧問にも携わっている。昭和25年には、木村隆三氏の兄・新吾氏が弘前中央高校の創立50周年記念事業のひとつとして講堂建築の依頼が再び前川氏にあり、設計を手がけることになる。

 こうした積み重ねで、前川氏と弘前市のつながりが、より一層緊密なものとなった。存在する建築物は、弘前市内に初期から晩年までの作品が八点残っている。

弘前に残る携わった建築物

1.(財)木村産業研究所           1932年
  .弘前電灯株式会社(設計顧問)      1933年
2.弘前中央高校講堂             1954年
3.弘前市庁舎                1958年
4.弘前市民会館               1964年
 .弘前市民体育館計画案
5.弘前市立津軽病院(現在 弘前市立病院)  1971年
 .弘前市庁舎増築改築            1974年
6.弘前市立博物館              1976年
7.弘前市緑の相談所             1980年
8.弘前市斎場                1983年

 以上のように、初期から晩年まで、それも年代の節目、節目に設計され、弘前市内に残されている。体育館については建設する予定だったが市立病院が火災のため急遽変更となり建造されなかった。また、残念ながら弘前電灯株式会社の建物は、最近まで東和電機工業株式会社の事務所として使用されていたけれど取り壊され、弘前中央高校講堂と弘前市立津軽病院の建物も、社会情勢から危うい状況にある。できれば末永く保存したいものである。

前川建築探訪in弘前
はこちらから



Back